高野槙名前の由来
昔から高野山には自然に多くの高野槙が育っており、成長に適した環境である高野山で植林・栽培が盛んとなったことから「こうやまき」と呼ばれるようになりました。 漢字で書くには、高野槙・高野槇と二つの書き方がありどちらも間違いではなく、高野山内でも地区により書き方が様々です。 他の地方では本槙、金松などと呼ばれる場合があります。
高野槙の木
葉の形状は枝の中心から車輪状に茂らせ、色は光沢のある深い緑色で心地よい香りを漂わせます。一年中葉が緑色で大木に育つ為、常緑高木の類に入ります。大きく成長したものでは高さ40m、直径1.5を超える大木もあります。
高野槙を御仏前に供えるのなぜ
高野山では昔、弘法大師空海が高野槙の枝葉を供花の変わりに御仏前(仏壇、墓前)に供えたことから、高野槙の枝葉を御仏前に供えるのが古くからの慣わしとなっています。 もう少し詳しく説明すると、なぜ供花の変わりに高野槙を供えたのか? 昔、高野山は信仰生活において禁忌十則という守らなければならない規律や規則があり、更にその中で禁植有利竹木という決まりがあり、主に果実の生る木、観賞を楽しむ為の花が咲く木、竹、漆などを高野山の御山に植えることを禁じていました。 そこで、御仏前に供える花の代わりが必要になり、花より丈夫で枯れにくく、一年中美しい光沢ある緑色の葉を付け、心地よい香りを漂わせ、更に昔から高野山に多く自生している高野槙の枝葉を供えたことが理由です。 今でも高野山では古くから伝わる風習で、法事、仏事、お盆、お彼岸、正月、お墓参りなどの際には高野槙は欠かせないものとなっています。
高野槇が親王殿下「悠仁さま」のお印に選ばれました
2006年9月6日に秋篠宮文仁親王と同妃紀子様との間に第3子である長男がおめでたく誕生され、同日、健康で元気な成長を願う「賜剣の儀」を無事お済になられました。 同年9月12日に新宮さまの「命名の儀」が行なわれ、悠仁と命名されました。 大きくまっすぐに育ってほしいという思いが込められ、お印として「高野槇」が選ばれました。 悠仁さまのお印として高野槇が選ばれことにより、全国的に高野槇が一躍有名になりました。
当店が扱う高野槇の産地相ノ浦
高野山の山上(総本山金剛峯寺がある場所)から山奥へ続く国道371号線を南へ車で約15分走行すると、高野槇の木々に囲まれた相ノ浦という地域があります。 昔から農業が盛んな村で高野槇を植林しており今では相ノ浦は高野槇の植林地として有名です。相ノ浦ではそれぞれの家に伝統的に伝わる方法で高野槇を育て管理しています。 相ノ浦の高野槇は良品質なことから山上の販売店へ卸し売りを主に行なっており、日々槇職人さん達により山上の販売店へ運ばれています。 更に相ノ浦には高野槇を木材として豊富に使用した「高野槙の湯温泉」があることでも有名です。 相ノ浦は昔から高野槇に恵まれていることから一部の人達は別名「高野槙の里」と呼んでいます。
高野槙の情報
昔はスギ科に属していましたが、現在はコウヤマキ科コウヤマキ属の一属一種となっています。 日本にのみ自生する高野槙ですが、昔は北半球全域に自生しており環境の変化に伴い日本以外の高野槙は絶滅してしまいました。そのことは日本以外から化石として発掘された高野槙から明らかになってきています。 古代の人々は高野槙を主に高級な棺などとして使用しており、古墳などから発掘される棺の材料には高野槙が使用されており、百済の武寧王の棺にも高野槙が使われていたことから、日本が百済と深く関わっていたことを物語っています。 高野槙は成長が遅い反面、繊維密度が極めて細かく、抗菌性・耐水性があるため、桶、風呂、船、橋、建築材料など高級木材として使用されていました。 その事は、有名な東京都に残っている千住大橋の言い伝えにより、どれだけ高野槙が木材として良質素材であったかを物語っています。 まだまだ、未解明な部分が多い高野槙ですが、古代から人々に必要とされていた想いは、現在でも変わりありません。
最近では、歯周病にも効果があると研究されているところもあり、高野山では高野槙を成分とした石鹸の研究も進んでいます。
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